水村美苗「日本語が亡びるとき」二章

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

昨日に引き続き次は二章。
本当は三章まで読み終わっているのだが、
二章と三章をまとめて書くのはとてもじゃないけれど無理だと感じ
ひとつの章ごとに頭で考えたことや思ったことを書くことになりそうな気がする。
未だにamazonのカスタマーレビューには1件の書き込みもないですね。
では引き続き思ったことを書き連ねていく。


大学の1・2年の時には第2外国語というものがあった。
ドイツ語、フランス語、中国語、スペイン語、ロシア語から選べたはず。
僕は大学では法学部に所属している。
別に学部でどうこういう話ではないけれど、
日本の法律というのはドイツ法の影響を多大に受けているので法学部に入るのであれば
一般的にはドイツ語を選択するほうがいいらしい。
(よく考えてみれば、法学の大学院にでもいかない限り必要ないと思うけれど)
1年の時のゼミの先生が海外の教授を授業に呼んで講演していたときもドイツ語だった。
ただ、実際にそういった説明があるのは履修申請が終わった後の話で、
僕は中国語を選択することになった。
(そういった説明があった後であれば、ドイツ語を選んだだろうか…。)


そもそも英語ですら勉強する気がなかった僕は、
かなり先生に怒られながら時に公然とバカにされながら何とか単位を取得することになる。
自分にはどの言語を選ぶかについて明確な理由はなかった。
しかし、ここまで書いて分かるのは選んだ明確な理由はなくても
僕がフランス語を選ぶ可能性というのは限り無く低いことである。
(中国語は言葉には出来ないけれど学ぶインセンティブがあったとその当時は感じたのだろう)


水村さんは自身がフランス文学を専攻した理由についてこう書いている。

英語の不自由なアジアの娘としてアメリカで生きていた私である。思えば、フランス語とは、そんな私が、少しでもアメリカ人の優位に立つのにはうってつけの言葉だったのである。フランス語とは、世界の言葉の中で、唯一英語と拮抗することができた言葉ー拮抗することができたのみならず、唯一優位に立ちうる言葉であった。
水村美苗、「日本語が亡びるとき」、p61

2000年代に英語以外の言語を学ぶことになった自分に取ってこの感覚というのは、
正直に言えばかなり理解し難い。
(高校までに読んできた本に偏りがあったことは否定できない。
自分にとって翻訳された本ですごい!と思っていたのはスティーブン・キングの小説だったため)
理解はし難いがそれと同時にフランス語という言語に何が起きたのかということがわかる。
一言で言えば、言葉の秩序で一ランク以上の低下が起きたということなのだろう。
そのことに対して水村さんは講演の中でこのように話している。

きょうび、フランス語で書く小説家たち。かれらのことを思うと、同情に堪えません。いや、この際、思い切って、正直に告白せねばならぬ……。かれらのことを思うと、実は、内心、隠微な歓びに満ち溢れてしまうのです。なぜなら、いまや、かれらのような御方が私の仲間入りをして下さった歓びがあるからです。
水村美苗、「日本語が亡びるとき」、p85

本当はこの後に書かれているかぎカッコの本文が凄まじいのだけれど、
(その前に書かれている書くことと母語の考察も素晴らしい)
それを引用するのはさすがに水村さんに対する敬意がなさ過ぎる行為なので控える。


この歓びの感覚。
今まで全く考えたことも想像したこともない感覚だ。
というか、生まれてから今まで言葉が「落ちぶれる」ということについて体感したことがなかった。
この感覚を共有し得ないと水村さんの言う「日本語が亡びる」と論旨もわからないだろうなと思う。
そして、その言葉が落ちぶれていくことによって、
言葉を書く人が持つ本来の目的を達成することを狭めていくことについても。


例えば、このブログは日本語で書かれていて、
そもそも読んでくれる人も話題のエントリー以外では身内の人ぐらいしかいないのだけども、
心のどこかでは日本の中で同じものに興味を持っているような人に出会えたらなという思いはある。
というか、確実にその感覚を持って書き続けている。
届き得ない不毛なことかもしれないけれど、そうでなければこんなことは出来ない。
でも、さらに例えばかわぐちかいじの「太陽の黙示録」的なことが起きて日本が分断されて
自分の使っている母語が通じる人が半分になったら?
それでも日本語でブログを書き続けるだろうか?という問いを考えるきっかけになるような気がする。


この章の最後に、イディッシュという言葉で書く小説家の一言を巡る考察が書かれる。
「日本文学のような主要な文学…」という一文である。
このフレーズは一章の初めにも出てきていて、どこか消えていくように説明が終わるのだが
この章で対比として使われる。
(ここからはかなり乱暴な表現を使ってしまうため、それが気に障る方は無視してください。)
つまり、上位にあったフランス語が下位に落ちてきたところに直面したことと、
影響力という面で言えば日本語よりもさらに下位に位置する、
イディッシュを使う小説家からの主要と言われた日本文学。
自分が日本語で届かせることが出来るよりも、更に小さい範囲にしか届かない言葉。
普段から英語を取得することばかり考えていると想像出来ない感覚であった。


早めに三章についても考えを書いて先に進めたいと思う。


※追記
もう三章とかぐだぐだ言ってる前に読むことにする。
ただ、三章を読みながらなぜか音楽について考えながらになった。
そういう話では全然ないのだけど。
昨日見たこの動画を見たせいだと思う。