ソフィア・コッポラ「ブリング・リング」:わからなさをわからないまま伝える映画

年を重ねていくと、若い世代の考えや行動の理由がわからなくなる。それが故に、いつも若い世代を代表する論客や若者論といったものがいつも世の中に出回っている。電化製品が普及するようになってからは新しいメディアを使いこなす若者と、その世界に入り込めない大人といった図式が度々登場するようになった。ポケベル、携帯電話、インターネット掲示板SNS等など。その時々で使いこなすモノは違うが、理解できない理由ほぼ同じだ。

「ブリング・リング」という映画はソフィア・コッポラという監督のある時期を締めくくる作品なのかもしれない。この映画を覆い尽くすのは、作品のモチーフとなった実在した窃盗グループの若者たちへのわからなさ、理解できなさだ。それはこの映画の少しおかしな時間の割り振りから伝わってくる。プロローグ(導入部分)→メインストーリーエピローグ(事件の顛末)という構成なのだが、プロローグの部分が驚くほど短い。窃盗グループのメインである、レベッカとマークという二人が出会う場面があるがこの2人の人物の人物描写がほとんどない(マークについては多少ある。けれどもそれはマーク自身の言葉による説明であり、深堀りがほとんどされていない)。そのため、観ていてもなぜマークが彼女に惹かれ、レベッカがマークと共に行動する気になったのか全くわからない。にも関わらず、その二人は出会ってから割と早いタイミングで映画や芸能の世界で活躍する有名タレントの家に侵入しては窃盗し始める。その後は仲間を増やし、窃盗を繰り返し、仲間同士で盛り上がるというエスカレーションっぷりをただただ描いているだけだ。そしてレベッカという人物が一体何を考えていたのか。そのことについては最後まで触れることはない。そのため、観客は窃盗、クラブでのはしゃぎっぷりによるエスカレーションや暴走については楽しむことはできても、登場人物に対して感情を移入するということが極めて難しい。

このことは「ブリング・リング」に何度も登場する、Facebookについての映画「ソーシャル・ネットワーク」と比較するとよりはっきりとする。「ソーシャル・ネットワーク」では、Facebookというサービスの誕生秘話に近い自伝的映画にも関わらず、ザッカーバーグという人がなぜFacebookを作ったのか、なぜ有名になりたかったのかに対してある仮説を立てた上でストーリーを組み立てている。それが映画の冒頭とラストに来ることでぼんやりとこの人物について理解出来るようになっている。

しかし、「ブリング・リング」という作品はそういった作品の作りから遠いところにある。演出は相変わらず素晴らしい。音楽の選曲のセンス、クラブシーンの映像・音楽、Facebookにアップする写真の感じ、服の組み合わせ、セレブの家のセット。この映画を構成するモノについてはこれでもかというほど練りこまれている。だからこそ、この若者たちの感情の見えなさがますます際立ち、なぜこんなことをしたのか?という根本的なわからなさだけが増していく。本当にこんな自己顕示欲のためだけにここまでいけるのか?と。エピローグの逮捕、裁判、テレビ番組への加害者の出演といった流れはこのわからなさをより増幅させていくだけだ。ソフィア・コッポラはインタビューでモチーフとなった事件をかなり調査したと答えているが、観ているこちらに伝えられたのは彼女が調べた事実の羅列とそれに伴う疑問だけだ。本来であれば、彼女のようなクリエーターがこういった若者の心情を汲み取り、ひとつの答えを出すべきだったにも関わらず。作品内で答えが出せなかったことはこの映画の良さでもあり、ティーンネイジャーへの敗北でもあるように思う。

と書いたものの、実は最後の最後、エンドロールでようやくこの映画に対するソフィア・コッポラの考えが示される。それは歌だ。Frank Ocean「Super Rich Kids」。歌い出しはこんな感じ。

Too many bottles of this wine we can't pronounce
Too many bowls of that green, no lucky charms
The maids come around too much
Parents ain't around enough
Too many joy rides in daddy's jaguar
Too many white lies and white lines
Super rich kids with nothing but loose ends
Super rich kids with nothing but fake friends

セレブの家に生まれた子どものやり場のなさ、孤独を歌った歌。ソフィア・コッポラがこの事件と若者たちから感じ取ったのは「孤独」だった。それは過去作「somewhere」や「ロスト・イン・トランスレーション」と共通したものである。この歌の顛末と、事件の顛末とを重ねあわせる選曲の上手さになんだかんだ最後はやられてしまうのである。