水素74% 『荒野の家』

 『荒野の家』は引きこもりの息子を抱えた父と母と、頻繁に実家に逃げてくる娘の4人家族の物語である。
 息子は小学生のときに母との間に起きたとある事件から甘やかされて育った結果、30歳になっても引きこもりである。母は今までの子育てを反省し息子を甘やかすのを止めようと決意するが、その決意はどこか中途半端である。父は引きこもる息子と会話をもう何年もしていないが、やはり子育てには失敗したと思い、何とか息子が良くなってほしいと母とは別の方法を画策する。娘であり、引きこもりの妹は、もっと両親に構ってもらいたいという気持ちから兄の更生の方法を考える。それぞれが引きこもりの息子の行く末を心配しつつ、自らの良かれと思ったことを推し進めていく。だが、自分が最もいいと思ったことを進めることが、家族全体を良い方向に進めていくとは限らない。
 
 別ジャンルで似たタイプの作品でいうと、リドリー・スコット『悪の法則』のような、最初からもう終わってる系の作品である。作品が始まった時にはもう既に結末に向けて転がり始めていて、誰もその転がりを止めることは出来ないし止めようとも思っていない。むしろ、舞台に新しい人物が登場していく度に結末への速度が加速していく。終わってみると、どれかが間違っていたからこういった結末になったのではなく、彼らが行った選択や会話のほとんど全てが間違っていたとしか考えられない。ただ、作品が始まった瞬間から全て「正しい」行動を行っていたからといって、違った結末が得られたとも思えない。そもそも、「正しい」行動とはなんだ?
 
 『悪の法則』は余程のことがない限り自分たちと関係がある世界とは思えないが、この『荒野の家』はいわゆるホームドラマで観客の生活と地続きの世界の話である。その一方で、誰もが自分たちは絶対こんなふうにはならないと高を括っている。だから、観客は会話の一つ一つや話の展開に「ヒドい。。」と思いながらも、怒号が飛び交う家族のやり取りでさえも思わず笑ってしまう。なんというか、非常に嫌な感じを味わう(褒めてます!!)作品だった。

Blur 武道館公演

この2014年に必ず観るべきライブはなにか。3月に来日するJkae Buggやサマーソニックでの来日が決まっているArctic Monkeysなどがおそらくそういった問いの答えになるのだろう。別にThe Rolling Stonesのライブに行ったっていいけど、そのお金でフジロック行ったほうがよくない?とも思うのである。そんな中、11年振りの日本でのライブとなるBlurはどういう立ち位置なのだろうか。

11年前、日本で最後に行ったライブはサマーソニックでのものだった。このライブは今でもはっきりと覚えている。なぜなら僕が高校3年生のときに初めて行った夏フェスがこの年だったからだ。フェスのトリ級のアーティストで生まれて初めて観たのがBlurだった。だが、そのときのがっかり感はすごかった。2003年に出されたアルバム「Think Tnak」はそこまで悪い出来であったとは思わなかった。ただ、グレアムが抜けた3人で演奏されるBlurは、引退目前の枯れ果てたバンドのように感じられた。その中でも、代表曲である「Tender」はかったるいのに長く、バックコーラスばかりが大きな音で聞こえ、とにかく苦痛だった。その翌日、Radioheadの衝撃的なパフォーマンス、その中でもCreepのイントロが演奏された時の会場の耳をつんざくような歓喜の声を体感してしまったことで、相対的にBlurの評価は下がっていき、新しいアルバムを作りながらも完全に終わったバンドであるという認識になっていった。

それから6年が経った2009年、彼らはオリジナルメンバーであるグレアムと共に再結成し、2日間のライブを行った。そのときのライブは両日ともCDで発売されている。再結成ライブ初日のCDを聞いたとき、今度はとにかく驚かされた。長いブランクがあったにも関わらず、完成されたバンドの演奏。4人で鳴らすために作られた音楽が演奏すべき4人によって演奏されている。そんな普通のことが行われているだけで、パフォーマンスの一つ一つに観客が歓喜の声を上げ、代表曲が演奏されるたびに観客が歌い、曲が終わる度にまた大歓声が起きていた。CDで聞いたにも関わらず、高校生のときにライブで観たとき以上の感動があった。

そのCDを聞いてからは再結成後のBlurを日本で観れる機会は来るのだろうかとずっと思っていた。ギャラなどの問題を考えると、おそらく夏フェス以外では難しいと思い、そこから毎年サマーソニックまたはフジロックのトリにBlurがアナウンスされるのを期待した。しかし、夏フェスにBlurが来ることはなかった。その代わり、2013年にTOKYO ROCKSという新しいフェスのトリとして呼ばれることが決まっていた。しかし、そのフェスはちゃんとした理由も発表されないまま中止になり、結局Blurが日本に来ることはなかった。もう来ることはないのではないか。そう思った頃に発表されたのが今回の来日公演なのである。当然、チケットはあっと言う間に売り切れた。決して安くないチケットだったが、それだけみんなが観たいと思っていた。

2014年1月14日。今度こそ中止にならず、武道館でのライブが始まった。ボーカルのデーモンがとにかく元気そうだった。ライブが始まってから観客席に向かってペットボトルの水を何度も何度もかけていた。ドラムから後ろにジャンプしては着地に失敗し、後ろに転びながら演奏したりしていた。グレアムがギターとして入ることで歌に集中出来るせいか、ボーカルとしても乗りに乗っていた。
しかし、僕が最も驚いたのはグレアムのギターであった。あれほど楽しそうに轟音を鳴らすギタリストを観たことがなかった。そして、1曲だけ演奏していたアコースティック・ギターは驚愕の上手さだった。The La'sのリー・メイヴァースに似た演奏で、叩きつけるような弾き方ではないにも関わらず、ピアノのようなリズム感が全面に出た演奏方法だった。あんなギターの演奏方法をリー以外に出来ると知らず、本当にびっくりした。そしてラストのSong2。今までメロディがいい曲というイメージがあったが、この曲の魅力の大半はアウトロの轟音ギターにあることをライブで初めて知った。今まで数え切れないほど聞いてきたにも関わらず。
新しいアルバムが出たわけではないため、代表曲ばかりが演奏されるライブで、聞きたかった曲が殆ど聞くことそれはそれで満足度は高かった。この5年間で作られた数少ない新曲も演奏されたが、今までの代表曲と遜色がなく、作られるかどうかわからないアルバムへの期待が高まった。

結局のところ、初めの問いに示した「2014年」的なものはこのライブには一切なかった。しかし、武道館で行われていたのはくたびれ果てたバンドによる90年代の懐メロ演奏でもなかった。90年代に曲を書きため、2009年からバンド活動を開始し、念願叶ってようやく日本に来日してくれたBlurというバンドがいた。あの日のライブを観て、そんな風に感じたのだった。

ソフィア・コッポラ「ブリング・リング」:わからなさをわからないまま伝える映画

年を重ねていくと、若い世代の考えや行動の理由がわからなくなる。それが故に、いつも若い世代を代表する論客や若者論といったものがいつも世の中に出回っている。電化製品が普及するようになってからは新しいメディアを使いこなす若者と、その世界に入り込めない大人といった図式が度々登場するようになった。ポケベル、携帯電話、インターネット掲示板SNS等など。その時々で使いこなすモノは違うが、理解できない理由ほぼ同じだ。

「ブリング・リング」という映画はソフィア・コッポラという監督のある時期を締めくくる作品なのかもしれない。この映画を覆い尽くすのは、作品のモチーフとなった実在した窃盗グループの若者たちへのわからなさ、理解できなさだ。それはこの映画の少しおかしな時間の割り振りから伝わってくる。プロローグ(導入部分)→メインストーリーエピローグ(事件の顛末)という構成なのだが、プロローグの部分が驚くほど短い。窃盗グループのメインである、レベッカとマークという二人が出会う場面があるがこの2人の人物の人物描写がほとんどない(マークについては多少ある。けれどもそれはマーク自身の言葉による説明であり、深堀りがほとんどされていない)。そのため、観ていてもなぜマークが彼女に惹かれ、レベッカがマークと共に行動する気になったのか全くわからない。にも関わらず、その二人は出会ってから割と早いタイミングで映画や芸能の世界で活躍する有名タレントの家に侵入しては窃盗し始める。その後は仲間を増やし、窃盗を繰り返し、仲間同士で盛り上がるというエスカレーションっぷりをただただ描いているだけだ。そしてレベッカという人物が一体何を考えていたのか。そのことについては最後まで触れることはない。そのため、観客は窃盗、クラブでのはしゃぎっぷりによるエスカレーションや暴走については楽しむことはできても、登場人物に対して感情を移入するということが極めて難しい。

このことは「ブリング・リング」に何度も登場する、Facebookについての映画「ソーシャル・ネットワーク」と比較するとよりはっきりとする。「ソーシャル・ネットワーク」では、Facebookというサービスの誕生秘話に近い自伝的映画にも関わらず、ザッカーバーグという人がなぜFacebookを作ったのか、なぜ有名になりたかったのかに対してある仮説を立てた上でストーリーを組み立てている。それが映画の冒頭とラストに来ることでぼんやりとこの人物について理解出来るようになっている。

しかし、「ブリング・リング」という作品はそういった作品の作りから遠いところにある。演出は相変わらず素晴らしい。音楽の選曲のセンス、クラブシーンの映像・音楽、Facebookにアップする写真の感じ、服の組み合わせ、セレブの家のセット。この映画を構成するモノについてはこれでもかというほど練りこまれている。だからこそ、この若者たちの感情の見えなさがますます際立ち、なぜこんなことをしたのか?という根本的なわからなさだけが増していく。本当にこんな自己顕示欲のためだけにここまでいけるのか?と。エピローグの逮捕、裁判、テレビ番組への加害者の出演といった流れはこのわからなさをより増幅させていくだけだ。ソフィア・コッポラはインタビューでモチーフとなった事件をかなり調査したと答えているが、観ているこちらに伝えられたのは彼女が調べた事実の羅列とそれに伴う疑問だけだ。本来であれば、彼女のようなクリエーターがこういった若者の心情を汲み取り、ひとつの答えを出すべきだったにも関わらず。作品内で答えが出せなかったことはこの映画の良さでもあり、ティーンネイジャーへの敗北でもあるように思う。

と書いたものの、実は最後の最後、エンドロールでようやくこの映画に対するソフィア・コッポラの考えが示される。それは歌だ。Frank Ocean「Super Rich Kids」。歌い出しはこんな感じ。

Too many bottles of this wine we can't pronounce
Too many bowls of that green, no lucky charms
The maids come around too much
Parents ain't around enough
Too many joy rides in daddy's jaguar
Too many white lies and white lines
Super rich kids with nothing but loose ends
Super rich kids with nothing but fake friends

セレブの家に生まれた子どものやり場のなさ、孤独を歌った歌。ソフィア・コッポラがこの事件と若者たちから感じ取ったのは「孤独」だった。それは過去作「somewhere」や「ロスト・イン・トランスレーション」と共通したものである。この歌の顛末と、事件の顛末とを重ねあわせる選曲の上手さになんだかんだ最後はやられてしまうのである。

アルフォンソ・キュアロン「ゼロ・グラビティ」。完璧な映画ではないが、圧倒的な魅力に溢れる映画。

 キュアロン監督の前作「トゥモロー・ワールド」は子どもが生まれなくなった近未来という設定で、奇跡的に生まれた赤ん坊を守りぬくというストーリーである。この映画で魅力的であったのは、驚異的な長回しによる映像である。特にラストの市街地での銃撃戦シーンは、何度観ても一体どうやって撮影したのかわからないほどの凄まじさになっている。赤ん坊を追いかけて銃弾の飛び交う市街地を通って行き、バスに避難すると同じくバスの中に避難していた人が撃たれ血がカメラに飛んでくる。その血が付いたままのカメラで映像は続いていく。ビルの中に突入するも目の前に銃弾が飛んできて何度もスウェーバックしながら、複雑な導線のビルから赤ちゃんを救出し脱出をする。この一連のシーンをワンカットで撮りきってしまう。

 こういった長回しについて、監督のキュアロンはインタビューの中でこう答えている。

 周囲の環境や状況が登場人物に対して牙をむいたり、反対に環境が人物に情報を与えたりしてサポートするなど、人物と環境の関係をリアルタイムで描きたいときに、カメラを回しっぱなしにするから必然的にロング・テイクになるんです。※1

 シーンがある解決を迎えるまでをワンカットで取るというのが、このキュアロンの発明であり、トゥモロー・ワールドを名作へと押し上げた理由でもある。
 だが、このワンカットという技法を除くと粗が見えてくる。そもそも、子どもが生まれなくなったという設定が生きているとは正直なところ言い難い。「守らなければいけない大切なもの」を作るための設定とはいえ、それ以外に未来的な設定が生きる場面があまりない。しかし、そんな決定的な粗があるにも関わらず、設定を信じこませるためであればどんな手でも使う。例えば、冒頭のビルに巨大なデジタルサイネージが設置されている映像や、世界が滅亡したという映像や、ピカソゲルニカを部屋に持ち込んでみたり。アナログなものからハイテクな映像まで使うことで世界観を作り上げていく。長回しが目立っているが、この「信じこませ」も大変なスキルである。


 
 そんなキュアロンが次に監督したのが「ゼロ・グラビティ」である。宇宙での衛星の修理中に、ロシアが自国の衛星をミサイルで爆破した際の破片が飛び散った結果、宇宙で次々と被害が発生していく。トラブルが連続する中、サンドラ・ブロック演じる主人公はISSなどの衛星を使って地球に戻るべく行動していく。

 今作では先に挙げたキュアロンの秀でたスキルである、驚異的な長回しと世界観の作り込みの2つが存分に発揮されている。まず、宇宙から地球を写しだした冒頭のシーンから、ずっとワンカットで繋いでいく。少なくとも予告編でも使われていたサンドラ・ブロックが宇宙に放り出されるところまではワンカットである。ここまでをワンカットにすることで、一気に宇宙に引き込むことに成功している。その次のシーンでは、酸素量の減少とISSへの移動をワンカットで見せることで、素晴らしいタイムリミットアクションとして仕上げている。いずれも理由のある長回しであり、非常に効果的な演出となっている。
 とはいえ、実は「ゼロ・グラビティ」での長回しはそこまで嫌らしく感じない。なぜなら、宇宙空間の映像に圧倒されてしまうために、そこまで気が回らないためだ。CGであることがわかっていても引き込まれる。それは映像の美しさもあるが3Dの使い方が上手いこともある。今作では3Dで効果的な表現である、飛び出しと奥行きのどちらも使われている。飛び出しについては様々な作品で用いられているが、3Dで面白い表現になるのはどちらかというと奥行き表現のほうだ。例えば、ヴィム・ヴェンダース監督「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」ではピナ・バウシュのドキュメンタリーであるにも関わらず3Dが用いられた。3Dによってあたかも自分の目の前にステージがあるような奥行きのある映像によって、ダンスを今まで体験したことのないような距離感で味わうことが出来る作品になっている。「ゼロ・グラビティ」で言えば、宇宙が最も奥行きのある空間表現であり、宇宙空間を飛び交う破片が飛び出し表現である。常に3Dになっており、どちらの表現も今までの3D映画の中でトップクラスである。

 この二つの表現の前作からの更なるビルドアップに加え、今作では宇宙という設定が生きている。なんといっても、宇宙に関するありそうなトラブルが次から次から発生する。文字通り次から次へと発生する。観ていて呼吸困難になるほどアクションシーンが連続する。それもほぼ不可避の出来事として発生する。映画が終わった頃には宇宙というものが人間ごときではコントロール出来ないことを思い知らされるのだ。

 最後にこの映画の弱点について。正直なところ、映画中盤くらいまで主人公に全く思い入れることが出来ないというのがこの映画最大の弱点だと思う。酸素が少ないのに、バカみたいに速い呼吸をしたり、酸素がなくなっているのにグダグダくっちゃべってモタモタしていたり、挙句の果てには勝手に死のうとしたり、お前本当に優秀なのか?と疑問しか出てこない。主人公に魅力がないという点については前作「トゥモロー・ワールド」から引き続いて改善されていない(準主役の、ジョージ・クルーニー演じるコワルスキーは楽しいやつなのにも関わらず…)。とはいえ、そんなモタモタした行動によって観ている観客がハラハラするので、弱点ではありつつメリットにもなっているため魅力のなさが感じにくくはなっている。

 ということで、とにかくアルフォンソ・キュアロンという監督の強みがより一層強化され、弱点も少しずつ改善されているという作品である。そうまとめてしまうとなんともショボそうに見えてしまうのだけれども、キュアロンの強みというのは際立っていて、その力を発揮しただけでその年のベスト級の作品が出来上がってしまうとほどのものである。にも関わらず、弱点までも克服しつつある。次回作で魅力溢れる主人公が登場することがあれば、恐らく歴史的傑作が誕生するだろう。

※1:http://gigazine.net/news/20131205-zero-gravity-alfonso-cuaron-interview/

今年劇場公開の映画TOP5


今年はだいたい映画館で観たのが60本ぐらいでした。今年公開の新作映画のベスト5を書きたいと思います。
 
5位:劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語


観た人の中で賛否別れるんでしょうけど、めちゃくちゃ好きです。
マミさんとほむほむの銃撃シーンはなんじゃこりゃ(褒めてます)と口あんぐりでしたが、
それ以上に口あんぐりなシーンがその後に来るとは思わず。

ストーリーもすごく納得してます。だってほむほむは一人だけ、何周も何周も考えられないぐらいループしてるんだから。テレビ版でまどかのエネルギーがアホみたいに増えてしまったのと同じように、ほむほむの気持ちも狂っていくのは普通のことだと思う。
そして、あれだけキレイに終わったテレビ版をああいった形で引き継いだ勇気は本当に尊敬します。


4位:パシフィック・リム

ガンダムみたいなロボものが特別好きなわけではないんですが、
これは観ていてもうめちゃくちゃテンション上がりました。
あんまり言うことないです。
観て、うぉー!!!!!!!!と思うだけ。それだけです。


3位:かぐや姫の物語

この映画を観に行くのは、2013年に日本にいる人の義務です。国宝級。
テレビの小さい画面ではあの奇跡のような映像の細部まで堪能することはできないと思う。
実は(というか高畑さんだから当然ですが)ストーリーも超秀逸です。


2位:ゼロ・グラビティ

かぐや姫とは違う意味での圧倒的な映像体験です。
キュアロン監督の前作「トゥモロー・ワールド」での様々なチャレンジがそのままパワーアップした超傑作。
観た人とわいわい話したいのだけれど、周りにはなぜかいない様子。


1位:風立ちぬ

風立ちぬは自分にとってはものすごく特別な作品です。
おそらく共感ポイントが他の人とは違うので、もう少し気持ちが落ち着いたときにもう一度観直したいです。

上記の作品以外では、ジャンゴ、ホーリー・モーターズ、凶悪、恋の渦、クロニクル、悪の法則が好きでした。
自分が観た中でのワーストは、ダイ・ハード ザ・ラストデイで。
とりあえず、あれはダイ・ハードとは認めないです。。


今年も楽しい映画鑑賞ライフでした。

悪魔のしるし「注文の夥しい料理店についての簡潔な報告」

 以下のレビューは、下流の観客からの視点に基いている。中流、上流の観客からはこれとは全く異なる感想を持っているだろうが、その観客になることは出来ないし、そのため気持ちを考えることも難しい。

 悪魔のしるし「注文の夥しい料理店についての簡潔な報告」は「 過去作『注文の夥しい料理店』を再構成したセルフカバー作品」であり全部で3つの席が用意されている。

・美才治真澄による特製フルコース付き上流席
・可もなく不可もない平々凡々たる中流
・逆に尊い気がしないでもない下流

 残念ながら過去作「注文の夥しい料理店」を観たことはないが、作品の紹介としてこんな文が書かれている。

観客席をS席とA席に分け、倍近く価格は高いうえ正装を強いられたS席の客は特等席に座り、 話題のフードアーティスト諏訪綾子(food creation)による、場面展開に添った食事を食べながら観劇できるという仕掛け。
逆にA席側から観ると、晩餐に興じる観客もまた舞台世界の住人のように感じられる。※1

 以前の上演で座る席のランクによって作品の捉え方が変わるという試みが行われていたらしい。この作品でいう座る席のランクというのは、例えば大きな会場にある前目の席をSランク、後目の席をAランクといったものとは全く異なっている。体験や目の前で起きることそのものが、ランクによって異なるのだ。

 そういった意味で、このセルフカバー作品は前作の観客席の関係をより広げている作品だと考えられる。まず、観客のランクは劇場に入る段階で既に選別されている。上流の客は、この料理店の正面の入り口から入ることが出来るが、下流の観客は裏口のようなところから入り、更に上流、中流の観客席ではなく、ひとつ上の階にある踊り場のような場所に設けられた席から鑑賞することになる。また席がちょっと後ろ目の位置にあるため、ステージで起きていることを正確に把握することは難しい状態になっている。

 しかし、そんなステージの見にくさは始まってしまえば全く気にする必要がなかった。なぜなら、下流の観客はこの「注文の夥しい料理店」で既に食べられてしまった人の役としてステージ上にのぼることになるからだ。作品が始まると、上の階にいるゴツいスタッフから何人かずつに麻袋のようなものが渡され、それを頭から被るように指示される。袋を被った後、階段を降りてステージの方に移動し、用意された遺書を読むように指示される。袋を外された下流の民は、これから上流の客に食べられる人の気持ちになりながら、その遺書を観客の前で読み上げる。遺書の内容はさまざまだ。僕が読んだものは非常に憤った感情のものだった。遺書を読み上げた後は、お役御免といった感じで、ステージ上にあるソファからこの作品を観ることになる。ただ、ステージにはライトが当てられているため、ステージ上で起きていることも見辛いし、ましてやこちらから観客席にいる中流や上流の客の顔を観ることはほとんど出来ない。逆に、中流・上流の客からは常にこちらの顔がはっきりと見えていただろう。

 以上は下流席から観た作品の流れになるのだが、3種類の観客にはそれぞれ全く異なる観劇の体験があったように思う。上流の観客は目の前に現れた下流の民を食べているような気持ちで目の前に出された料理に舌鼓を打ち、中流の観客はそんな上流と下流の観客の様子を少し引いた目で観ることが出来る。下流の観客は客と俳優の中間にあたる役割で、作品の中の嫌な部分を最も体験することが出来る。よって、3つの客席のランクはそれぞれに魅力を持っている。もし観た観客に不満があるとしたら、事前に内容がわかっていれば他のランクの席でもよかったというぐらいだろうか。僕は鑑賞料金、作品への関わり方などを全てトータルして下流席でよかったなと思っているし、その体験にとても満足している。

※1:http://www.akumanoshirushi.com/RESTAURANT.htm

Theater ZOU-NO-HANA「象はすべてを忘れない」

 今はすっかりあの場所に馴染んだように見える赤レンガ倉庫だけど、横浜で生まれ育ってきた身からすればすごく違和感が残っている。中に入っているお店も魅力的ではないし、イマイチ何のためにあるのかよくわかっていない。おそらく、赤レンガがないと横浜からみなとみらいまで行った人たちが、そこからもう一つの観光地である中華街まで行ってくれないのだろう。なぜなら、道すがら何もないからだ。本当に何もない。あるとすれば海があるくらい。だから、横浜の観光地をパワーアップする上で、馬車道まで導線を作れるかが大きなポイントだったのだろう。あの辺り一帯はみなとみらいから山下公園、中華街へと人を流していく道にぽっかりと空いたスポットだったのである。

 そういうことで、みなとみらい側から見て、赤レンガ倉庫の先にある象の鼻テラスというのは唐突生まれたイメージがある。すごく不思議な場所で、誰が見ても何かスペースはあるが、それが「象の鼻テラス」という名前であることも知らないし、名前を聞いても「あそこ、そういう名前なんだー。へぇー。」といった感じ。余程の近隣の住民でない以外、言われてもそこねとはならない。そもそも、「象の鼻テラス」ってどういう由来なんだ??

 ままごとの柴幸男が演出をしている「Theater ZOU-NO-HANA 象はすべてを忘れない 」はそういった場所で行われている。12時半から17時ごろまで、いくつかの出し物を時間ごとに区切って行っている。下の写真は今日のタイムテーブルで、うたや、スイッチを押すことで始まる演劇、カフェでオーダーが入ると行われるダンスなど様々な種類のものがある。

 小さい子がスイッチを連打してケラケラケラケラ笑っていたり、(いい意味で)本当にしょうもない作品を観て大人も自然と笑みがこぼれたりする。また、甘酸っぱいオーダーダンスにおばあちゃんがちょっとドキッとしたり、大人も子どもも激ウマな紙芝居を夢中で聞いたりする。こういった一つ一つが、さて赤レンガも観終わったしもう少し先に行ってみようかとたまたま通りすがった人たちに対して、ここを通ってよかったと心から思えるであろう体験を提供できている。その関係性は観ていてとても幸せなことで、感動的でもある。今年の夏に上演された、ままごと「日本の大人」は、劇場の中でこういった関係性を結ぼうとチャレンジしていた作品だったのではないかと、この「象はすべてを忘れない」を観て思った。この素晴らしい体験が出来るのは明日まで。
http://www.zounohana.com/schedule/detail.php?article_id=215