水村美苗「日本語が亡びるとき」一章

梅田望夫さんがブログにて、

この本は今、すべての日本人が読むべき本だと思う。「すべての」と言えば言いすぎであれば、知的生産を志す人、あるいは勉学途上の中学生、高校生、大学生、大学院生(専門はいっさい問わない)、これから先言葉で何かを表現したいと考えている人、何にせよ教育に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う。願わくばこの本がベストセラーになって、日本人にとっての日本語と英語について、これから誰かが何かを語るときの「プラットフォーム」になってほしいと思う。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107

と評価した水村美苗の「日本語が亡びるとき」を買って読み始めている。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

実は昨日の10時過ぎに梅田さんのエントリーを見て「あ!もう出たんだ!」と思い、
本屋にギリギリに飛び込んだら見つからず今日改めて違う本屋に出向いたら数冊入荷していた。
あまり目立つように置かれているわけではなく、文芸評論の日本語コーナーにひっそりと。


今のところ、とぼとぼと読み始めて一章まで読み終わった。
まだこの本の前提の確認となる章ではあるが、
今まで自分が考えたことのないようなことがたくさん出てくる。
自分はなんて想像力のない生活を送っているのだろうとも思う。


まず、ひとつの言語と国と人との関係を結ぶ言葉の種類がいくつもあることに驚いた。
「書き言葉」「話し言葉」「母語」「公用語」「国語」「普遍語」。
もちろん、ひとつひとつの言葉について聞いたことはある。
だが、その違いについて深く考えたことはほとんどない。
日本に暮らしている自分には母語公用語と国語が違うことがあるということが全く想像出来ていなかった。

実際、この半世紀ずっと平和が続き、しかも言論の自由が保障されていた国ーすなわち、第二次世界大戦というものが最後の大きな傷跡であった国からきた作家は少数であった。
水村美苗、「日本語が亡びるとき」、p43

世界中の人たちが「自分たちの言葉」を選んでいく。
そのプロセスの中に歴史や文化がいかに結びついているのか、そのことに自分はあまりに無知過ぎだ。


この後読み進めるにあたってこの文章は常に考える必要があるのかもしれない。

いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはその時の記憶さえも失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。
水村美苗、「日本語が亡びるとき」、p52

日本語なんて消えるわけないじゃん!みたいな意見もあるだろうけど、
この文章を読む限りたぶん言語学的なものであったりとか、
英語が普遍語になることによって日本語が駆逐されるわけないじゃん的な話ではないだろう。
まずは水村さんが言う「亡びる」をしっかりと自分の中に取り込んで先に進みたいと思う。