ポスト・ロスジェネ世代が読む、下流志向

「数学とか勉強して、何のためになるんだよー」
こんな言葉は高校生の時、数学苦手なやつがよく言っていた。
微分積分が出来なくても死なないし」
これも有名どころのフレーズ。
この辺りを思い出すと、内田樹の「下流志向」は僕ら世代を分析した本だといえる。

読む前に「学ばない子どもたち 働かない若者たち」という副題が刺さる。痛いよー。

なぜ、勉強しなくちゃいけないの?と発する子どもの背景

「なんで、勉強しなくちゃいけないの?」という問いをなぜ子どもたちが発するのか?
という疑問に対する回答としてこの本はわかりやすく答えを提示している。
それは「等価交換する子どもたち」と「自己責任フェティシズム」のふたつの掛け合わせである。
自分が学校に足を運び、椅子に数十分座りっぱなしという「苦痛」への対価として、
教師がどれだけ将来役にたつものを自分に提供するのか、
この感情を一言で表したのが「なんで、勉強しなくちゃいけないの?」という問いであると、
諏訪哲二の「オレ様化する子どもたち」を引用しながら説明している。


この「等価交換」によって起こるのは「学びからの逃走」であり、当然リスクが生じる。
リスクがあるから学んでいるのか、学ぶことによってリスクを回避していたのか
その判断は難しいところだと思うけれども。
では、若者たちはこのリスクをどのように回避したつもりになるのかというのが問題になる。
ここで、出てくるのが「自己責任フェティシズム」である。
僕なんかは自己責任というとイラク人質事件で声高に唱えられたという印象がある。
そのとき言われたのは、行ってはいけない国だと何度も言っていたのにそれを無視して入ったんだから、
もし死んでも政府に責任はないよっていう責任逃れのためだった。
人質になった人たちが俺たちが自分たちで決定したんだから死んでもいいといったわけではなく、
力関係で上の人たちが言い逃れのため使っていたはずである。
それがなぜか回り回って、逆の使い方、
つまり「自分で決定したんだから自分で責任を取る」に変化している。
これがどのように使われるかといえば、
「授業にでなくて単位が取れなくても、自分で決めたことだから別にいい。」とか、
「自分で決めて入った会社だから、潰れてもしょうがない」とかそんな使われ方をする。
これって、正気に戻って考えればリスクを全く回避できていないのはすぐにわかるわけだけども、
なんだかわからないがそういうことになっている。
そして、自己決定によって階級降下してもあなた以外の誰も責任を取りませんという社会になりつつある。
というのがざっくりとした本の内容です。

自己責任を強要しないでくれ

ここからが、ポストロスジェネ世代というか就活終わらない子の嘆きになるのだけれども
正直自己責任を強要しないでくれよと思う。
就職氷河期に直面して、正規雇用にありつけなかった人たちを
「フリーターとかニートなんてただの自己責任じゃん(笑)」と切り捨てる世の中で、
いわゆる「売り手市場」で就職できなかったらもう何て言われるかわかったもんじゃない。
「お前が努力しなかっただけじゃん」という一言だろう。うっわー。
いや確かに、大学の授業に出ないで読書してたりひたすらバイトしてたりしてたよ。
でも言い訳すれば、それは自分たちの世代だけじゃないと思う。
どんな昔の小説でも同じことをやっているし。(「三四郎」とか「金閣寺」とか)
ということは、大学生活でダラダラするのは別に僕らの責任ではなく、
ダラダラするような制度を採っていること自体が問題なのではないのか?
とか書くと、制度批判で自己責任逃れするというすごく痛い図になる。うっわー。
ということで、正直これで責任取らされるなら、それでも一言だけ言っておきたい。
頼むから、大学のクソつまらない授業をどうにかしてくれ。これ切実に。
じゃあ、強要された自己責任を取りに日々頑張ります。