キュレーションからは何も「生まれない」(「キュレーションの時代」を読んで)

佐々木俊尚さん ([twitter:@sasakitoshinao]) の新刊、
「キュレーションの時代 - 「つながり」の情報革命が始まる」を読みました。
300ページぐらいですが、事例が多く大変読みやすいです。
ですが、この本を読み始める前に読んだ、とある本に書かれていた懸念を覆すような
事例が出てくることもなければ、考察が出てくることもないように思いました。


佐々木さんはこの本の中で事例として、
アウトサイダーアーティストのジョセフ・ヨアキム
・ミュージシャンのエグベルト・ジスモンチ
・映画の「ハングオーバー」署名活動
・「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」展
アウトサイダーアーティストのヘンリー・ダーガー
などを挙げています。
これらの事例の特徴は、「シャガールの事例」を除くと、
今まで解釈するためのコンテキストがなかったものにコンテキストを持たせて、
みんなが解釈しやすくするといったことがあります。


では、シャガールはどう違うのかと言えば今まであったコンテキストの上に
もうひとつコンテキストを持たせるという点でその他のものと全く違うと言えると思います。
おそらく、旧来のアート業界で行われているキュレーションというのは、
シャガールの絵を旧来の意味を持たせたまま展示形態を変えることで、
他のコンテキストを見せるようなことを言うのではないかと思います。


そういった訓練・修行を経て行われている旧来のキュレーションに対する敬意が全くないまま、

これは情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、クチコミのようにしてソーシャルメディア上で流通させるような行いと、非常に通底している。だからキュレーションということばは美術展の枠からはみ出て、いまや情報を司る存在という意味にも使われるようになってきているのです。
佐々木俊尚、キュレーションの時代 - 「つながり」の情報革命が始まる、p211

こういった乱暴なまとめをするのはどうなのかなと思います。
事例を挙げないと汚いと思うので、この本の中で

私はウェブの世界がどのような枠組みの中で進化していき、どのようなポイントから進化を見ていけばいいのかという点について、たぶん他の人とは独自の視座を持っています。その私の視座に共感してもらえる人がいるのであれば、私のツイッターによるキュレーションは支持していただけるのではないか、と。
佐々木俊尚、キュレーションの時代 - 「つながり」の情報革命が始まる、p257

と書かれているご自身の今朝のツイートはこんな感じでした。

ムラ社会の話のあとに、海外の大型書店の倒産のニュースがきて、NHKの自作自演話がくる。
これらの記事が並ぶこと、この順番で並ぶことに何のコンテキストを読み取ればいいのでしょうか??


僕は佐々木さんのツイッターをフォローしていますが、
まあ何かしらの考えがあって、ピックアップされているのだとは思いましたが
ここまでかなりの期間毎朝ツイートされるニュースを見てきても、
佐々木さんが伝えようとしている文脈を解釈できていません。
(キュレーション、キュレーション言ってるのは本の宣伝だと思いますので)
まあ、僕の頭が弱すぎると言われればそれまでですが、
このような行いを上記のシャガールの事例と同様の行いであるように書かれるのは納得いかないのです。


ここで、冒頭に書いたとある本の話になりますが、
結局この本で最終的にキュレーションと呼ばれているのはでこういうことだと思います。

もうひとつ例を紹介しよう。私が「メタを極めるレース」と呼ぶものだ。フェイスブックツイッターは個人という特質を薄める設計となっているが、これからはフレンドフィードなどのサービスが登場し、アグリゲーションされたものがさらにアグリゲーションされるようになる。その結果、個人の抽象化が進み、高レベルのメタという幻想が広まるだろう。
ジャロン・ラニアー、人間はガジェットではない、p59

やっていることは、とあるブログに書かれた「これこれこういうことは僕はこう思うな」という記事を
「俺はもっと高い視座を持っていて、この記事はこんな風に思うよ」という
メタ視点合戦をやっているだけだと思うのです。
そのうち誰かが、佐々木さんの「キュレーション」を見て、
「いやいや、あなたのこのまとめは私のこのまとめの一部ですからwww」みたいな話が出てきて
どんどんメタメタしていけばいいのかもしれません。


ただ、この本を読んで「キュレーションすげ!」となっている人たちに対して、
わざわざ批判するような内容の文章を書くのには当然意味があります。
それはメタ視点合戦をやっても、何も生み出さないからです。
例えば、ヒップホップのようなサンプリングから何か新しいものを生み出すのならば、
これは十二分に価値があることだと思います。


しかし、このメタ視点で何かを提供する(ツイッターを使っての「キュレーション」)等が
何か新しいものを生み出しているのでしょうか?
人々が何も新しいものを生み出すことなく、メタ視点合戦をすることで何かよいことがあるのでしょうか?
また、次の引用に対して何か反論が出来るのでしょうか
ジャロン・ラニアーがクレイ・シャーキーの「思考の余剰が大量に活用可能」という考え方に対する
反論の文章を以下に引用します。

では、今までテレビに使っていた時間からどれだけの秒数を回収すれば、たとえばアルベルト・アインシュタインに等しい成果をあげられるのだろうか。私の考えでは、銀河系に一兆人の宇宙人がいたとして、その全員をネットワーク化し、数秒ずつ物理学ウィキに貢献してもらったとしても、偉大な物理学者どころか凡庸な物理学者ひとりに匹敵する成果をあげることさえ不可能だと思う。
ジャロン・ラニアー、人間はガジェットではない、p97

「キュレーション」と呼ばれるようなメタ視点のまとめを行ったところで
そこからオリジナルが生まれることはおそらくないし、
一人一人が「俺すげww」といった満足感を得るだけなように思います。
また、本当だったら素晴らしいものを生み出せる可能性がある人をメタ合戦に巻き込み
新しいものが生まれる可能性まで奪っていくということまで考えてどう思っているのかなと思うのです。


これは別にキュレーションをやるなという話ではありません。
みんなに気になったニュースを共有したいならすればいいし、試しに自分もつい最近初めてみました。
mixiボイスにニュースばっかり流れてくるとのことで大変不評ですが。。)
ただ、これからはキュレーションの時代です!といって煽るのはちょっと違うのではないかなと思う。
そもそも、旧来のキュレーションからは現状で比較すると相当レベルの差があることは間違いないわけだし。
次の本でウェブを通じて何か世の中が変わる出来事みたいなことをキュレーションしてくれるのを待ちたいと思います。