「思考の補助線」は現代版学問のススメだ

茂木健一郎ファンなので、買いました。「思考の補助線」。


茂木さんが怒れる対象としている「文系」「理系」という枠組みや
細分化されている専門性について書かれている。
そして、「世界全体を引き受ける」という思いについても書かれている。
これは「クオリア降臨」という本でもテーマとなっていて、僕の中でヒットしている言葉だ。



脳科学を研究している茂木健一郎ではなく、「世界を引き受ける」と決めた茂木健一郎
自分と社会とのギャップについて考えを述べているように感じた。
その考えは、学習することをしない現代人への怒りであり、学問のススメである。

心に残ったところ

やはり、「たった一人で現代のアレクサンドリア図書館にはなることなどできない」という一文だろう。
専門性が細分化されていくことで論文の量は膨大なものになり、
とても一人で読めるものではなくなっている。
ひとつのジャンルでも難しければ、それを幅広いジャンルで当てはめることは難しいということだ。
だからといって、世界を引き受けることを諦めるのか?と言えばそれは違うだろう。


そのためには、何人かの人間で協力する必要がある。
茂木さんはこのことを「学問という「交易の場」における、よき商人に徹するしかない」と表現している。
協力する時には、自らの専門性を差し出さなければならない。
その専門性がよい「商品」でなければ誰も取り扱ってくれないだろう。


自らの専門性にも責任が付きまとう、そんな時代なのかもしれません。

進むべき方向は?(感想)

最近は自分の専門を作るということをものすごく意識して生きています。
ゼミでは、ジャーナリズムを学んでいますが正直なところどうしようもない勉強だと認識しています。
僕らがゼミの教室でいい報道とは何か話し合ったところで世界は何も変わることはない。
そのため、少しずつシフトチェンジして「メディア論」の勉強に移っています。


この本を読むと、「考える」という作業や「学習する」という作業を怠っていた自分が恥ずかしくなります。
これからは「思考の補助線」という偶有性を得るためにもう少し幅の広い勉強を自分に課そうと思います。
茂木さんが「連続体仮説」や「量子力学観測問題」について知らないのに
知識人とか気取ってほしくないと書いているので好き嫌いなく学ばなければと思う次第です。