ラビア・ムルエ「雲に乗って」

 舞台上には、たくさんのCDケースや様々なものが置かれた机とスクリーンが置かれている。観客席が暗くなり、作品が始まると、一人の男がその机に向かって歩いてきて、机の前に置かれている椅子に座る。その歩き方を見るに、右半身に明らかに障害を抱えていることがわかる。そして、机に置かれたCDケースを揃えてひとまとめにした後で、一番上のCDケースからCD/DVDを取り出し、プレーヤーに入れる。その間も彼は右手を一切使わない。不自由そうに動かしている左手の動きからすると、右手は使わないというよりは使えないのであろうことが伝わる。1枚のCD/DVDは長いものでも5分〜10分ほどのもので、終わるとプレーヤーから取り出し、その下のCDケースから新たなCD/DVDを取り出しプレーヤーに入れるということを繰り返していく。

 DVDから流れてくる映像から、彼が何者で、なぜ右半身が使えないのかということが徐々に明らかになっていく。 「雲に乗って」は今作の劇作家ラビア・ムルエの弟イェッサが出演する。イェッサは、レバノンの内線で頭に銃撃を浴びたことによって後遺症を負ってしまう。銃撃の際の様子についても、劇中で詳細に語られる。

 目の前の男に集中するあまり、途中まである事実についてどこか置き去りになっているが、彼が自らのことを語れば語るほどにある事実が浮き彫りになっていく。それは、この作品はイェッサ一人では絶対に創ることが出来ないということだ。それは才能がなくてこういった構成を思いつくことが出来ないといった意味ではない。彼は銃撃によって、詩人でもあった彼の言語に関する機能が奪い取られてしまった。そのために、これほどの長さの言葉を紡いでいくことは不可能になってしまった。また、同じく銃撃によって彼は虚構と現実との区別がつかなくなってしまった。彼は演劇作品などを見ると、それが本当のこととしか感じられなくなってしまったという。また、鉛筆の写真といったモノの虚構については認識すらすることが出来ないという。ただの色のついた紙にしか見えず、それが鉛筆の写真とは認識出来ないのだという。

 こういった事実が伝えられればられるほどに、この作品を作った兄ラビア・ムルエの存在がクローズアップされていく。今まで、レバノンの内線によって銃撃を受けた男についての作品だったものが徐々に、ラビアとイェッサの兄弟、ムルエ家の家族の話へと焦点が変化していく。そして、作品の終盤でついにこの兄弟の会話が流される。イェッサはラビアに対して自らを作品に使ってくれとお願いをする。自らの話は「でっち上げ」過ぎたと語るラビアは、イェッサ本人の話を作品にすることはどうかと提案をするのだ。

 確かに舞台上にはイェッサがいる。そして、イェッサは演じている。彼は虚構と現実の区別はつかない。それでも、彼は舞台上で黙々とCD/DVDを入れ替えるという役を演じる。彼はこの舞台で話すべき内容、話したい内容を自らの体から発する言葉によって再現することは出来ない。再現どころか、一度ですら通して行うことは難しいだろう。しかし、ラビアの協力の元で構築された映像と録音によって、イェッサから失われた言葉は再度構築され、再現性を持つ演劇へと昇華される。

 ラストにイェッサは右半身が動かないにも関わらず舞台裏からギターを持ってくる。もちろん両腕が使えなければ演奏することが出来ない楽器である。ただ、行われた演奏はこの作品を観てきた者にとって衝撃だ。こればかりは観た人だけが共有できるものだからここでは書かない。

 その衝撃度は終わった後の割れんばかりの拍手がそれを示していた。拍手が鳴り止まない中、イェッサは劇中で苦手だと語っていたカーテンコールが2度行われ幕を閉じた。