マームとジプシー「COCOON」

 今日マチ子が、戦時中の沖縄の女学生について描いた「COCOON」を原作にした作品。原作との比較で言うと、原作では少ししかなかった看護隊に入る前の学校でのエピソードがかなり大きく扱われ、看護隊に入る前、看護隊での活動、看護隊解散後といった3部構成になっている。

 マームとジプシーの特徴は、喪失とリフレインだと言われる。「リフレイン」については観てみれば分かる通り、繰り返しを行う演出手法だ。繰り返しといってもその繰り返し方は多様で、同じ場面を連続して繰り返すこともあれば、既に演じられた場面がその後の場面で再度演じられることもある。このリフレインについては、「COCOON」という原作がある作品でも、過去の作品と変わらず重要な手法として使われている。ただ、マームのリフレインは、今目の前で上映されている作品に留まることなく、過去の作品の場面をもリフレインしていく。

 僕はそもそも演劇を見始めたのも今年になってからで、マーム(もしくは藤田貴大が演出する)作品に関しても3作品しか観ていない。しかし、そんな僕でもこの「COCOON」を観ていて、過去の作品達を想起してしまう。

 例えば、冒頭にサン役の青柳いづみが行う、走っていって止まったところで足を前に出し、地面に触れるか触れないかというところで後ろに下がっていく動き。例えば、木の枠。例えば「わたしってマジでクソだな。」というセリフ。また、役名=俳優の名前をそのまま使うという方式。吉田聡子はどの作品でも「さとこ」だし、李そじんはどの作品でも「そじこ」である。否が応でもその他の作品でのキャラが重なりあっていく。

 今回最も避けなければならなかったことは、「戦争ひどい」や「戦争で死んでしまってかわいそう」という「戦争」という言葉が間に入ることによる「喪失」に関する価値の差が生まれてしまうことだろう。これが生まれてしまうと、じゃあ戦争でない出来事による「喪失」は描く意味があるのかという疑問が、マームとジプシーという劇団が今まで作ってきた作品、そして今後作っていく作品に対して向けられてしまう。

 ここまで挙げた動きやセリフは「COCOON」の中でも最初や最後といった最も重要な位置で登場する。今日マチ子が描いた作品を原作にしても、過去の作品の場面を大事な場面で召喚することで「マームとジプシーの作品」として成り立たせている。その結果、沖縄戦で亡くなっていった女学生についての作品であっても、それら少女の死は特別な死ではなく、誰かを失うということについて、価値はそれぞれ等しいことを伝えている。