ソフィア・コッポラ「SOMEWHERE」

 ハリウッドの映画スター、ジョニーは高級ホテルに暮らし、高そうなフェラーリを乗り回し、毎日女の子を部屋に呼び寄せるといったいかにも成功した男といった生活を送っている。こんな男を主人公に配置しておきながら、エル・ファニング演じるジョニーの娘が画面に映った瞬間、映像が一気に華やかになる。

 ホテルで顔を合わせる場面、プールでの水中シーン、プールサイドのシーン、イタリアから帰ってきた日のロビーのシーン、キャンプに向かう途中での心情吐露シーンなど挙げていけばキリがない。とにかく、彼女が映るたびにこの映画の瞬間最高得点を叩き出す。美しい空と彼女がいればそれでいい、いや彼女がいなければハリウッドのスターである人生ですらも空虚に思える。最後にジョニーが泣きながら伝えるその気持ちを、観客にそりゃそうだろうなと思わせるほどの説得力をエル・ファニングは持っている。

 男性を主人公にしたにも関わらず、最終的には女性、それも成人していない女の子が最も魅力的に映る作品になってしまうのはやはりソフィア・コッポラの作家性故なのだろうか。

高畑勲監督「かぐや姫の物語」

 ウォルト・ディズニー・カンパニーCEOのロバート・アイガーがカンブリア宮殿内のインタビューでこんなことを言っていた。

「質より前に「コスト」がきてしまうとリスクをとらなくなり、恐れるようになってしまうのです。それはどんな偉大なアーティストにも言えることです。
素晴らしい作曲家や画家や建築家、彼らはリスクを取っています
そして自分の作品が人々に理解されないという恐怖を抱えるからこそ、素晴らしいアートを生み出せるのです」

 今年公開されたスタジオジブリの2作品、「風立ちぬ」と「かぐや姫の物語」の2作はとんでもなく制作費がかかっているらしい。

中山「そんな中、『風立ちぬ』は興行収入が100億を超える大ヒットと聞きましたけど」
鈴木「おかげさまで120億くらいの大ヒットですけど、それでも赤字なんですよ(笑)。そこへ持ってきて制作費51.5億の『かぐや姫の物語』でしょ?今年はどこまで赤字ができるか。もう高みの見物ですよ」※1

 つまり監督、プロデューサー共にこれ以上取れないほどのリスクを背負っていて、それだけのクオリティを追求した作品と言えるだろう。そして、そのリスク負ったチャレンジによって奇跡のような作品が生み出された。

 「かぐや姫の物語」は誰もが知る日本最古の物語である竹取物語がベースとなっている。竹取物語がベースになっているというだけで、敬遠する人もいるだろうが、おそらくその原因は学校などでこの物語を読んだ記憶が残っているからだろう。断言してもいいが、この映画を見ればそんな記憶が今後思い出されることがないほど、強烈な記憶が上書きされるだろう。
 とにかく未だかつて観たことないような映像に圧倒される。1カット1カットが1つの絵としての独立した作品であっても驚かないようなクオリティで、それらが映像として動く。特に自然の描写に関しては鳥肌が何度も何度もたってしまった。予告編でも使われていた桜の木のシーンはこの映画でも気に入っているシーンのひとつだ。予告編で何度も見ていたにも関わらず、作品で観た時の感動はそれまでに見ていたときのそれを遥かに超えていた。
 風景画以外で言えば、かぐや姫命名の祝いをする宴の場面でかぐや姫が走りだすシーンが強烈だった。それまでの丁寧なトーンの映像から、黒を基調とした激しいタッチの映像に変わる。この映像を観た時に、漫画「HUNTERXHUNTER」のキメラ=アント編でゴンがネフェルピトーに失望・激怒し、自らの姿を変化させていく場面を思い出した。激しい怒りという意味でこの2つは共通している。とはいえ、「HUNTERXHUNTER」が漫画の複数カットであるのに対して、同じレベルかそれ以上の絵が映像で流れていく。感動すると同時に、どれだけの時間がかかったのかその製作スタッフに対する敬服する。

 また、別の側面からこの作品を考えてみたい。日本には古典と言われる作品はいくつもあるが、それを後世に伝えるための努力がほとんどされてこなかったように思う。そのために歌舞伎、落語、能などの日本の伝統文化が若い世代に伝えられず、徐々に衰退し始めているように思う。そういった状況に対抗するために、例えば演劇では木ノ下歌舞伎という劇団が歌舞伎等の古典作品を新たな解釈と演出で作品を上演している。先日の公演では歌舞伎の古典中の古典「東海道四谷怪談」を通しで上演した。6時間という上演時間が予め伝えられていたにも関わらず、劇場は満員だった。演出をするに辺り、彼らは一度歌舞伎の演出をDVDなどで見てコピーし、その演出は歌舞伎の地がないと出来ないことを身をもって実感した後で残すところは残し、同じことをやっても魅力的でない場面は大胆に変更したりして、歌舞伎を全く見たことがない人でもギリギリ話がわかる作品に仕上げていた。このギリギリの設定によって、今まで歌舞伎を観たことがない人が歌舞伎に興味を持たせることに成功しているように思う。
 今回の「かぐや姫の物語」はそういった古典の伝承を行うために意識的に作られた作品である。

「それでまあいろいろあったんですけどね、『かぐや姫』はどうかなあって。というのは、高畑さんも『かぐや姫』はやるべきだってずっと言っていて。『かぐや姫』っていうのは『源氏物語』の中でも紹介されてるわけですけど、それによれば日本最古の物語。これは誰かがちゃんと作るべきじゃないかって。で、高畑さんを説得して。」※2

 最初は「平家物語」をやろうとしていたが、アニメーターに断られたために選択したのが「竹取物語」ということらしい。どちらを選んだとしても、日本に古くから伝わる古典という意味では変わらない。そういった意味では覚悟の上での作品化と言える。
 その作品化で高畑は、かぐや姫や生まれ育った人たちが話す言葉を現代の言葉遣いにし、都にいる人達の言葉を古典的な言葉遣いにしている。このことで、言葉遣いの対比を生み出している。竹取の翁が九に身分不相応な言葉遣いをする様子を面白くみせたり、かぐや姫の変化も言葉遣いの変化で見せたりすることが出来ている。また、観ている観客は現代の言葉遣いなので、かぐや姫たちが山から都に出ていって感じる驚きを同じ気持ちで体験することが出来る。
 またこの観点でいうと言葉遣い以外で、やはりその画作りに納得がいく。個人的には「風立ちぬ」のような通常のジブリのアニメーションよりも、作品として驚きを持って鑑賞出来る期間が長いように思うからだ。驚愕のシーンは既に挙げたが、実際のところ観ている最中常にここがすごいあそこがすごいと思いながら観ていた。竹取物語という話が既にわかっている作品にも関わらず、飽きることなく見続けられるのはこれが理由だろう。また、この映像に見慣れるような日が来たとしても、この画であれば教育的な作品として生き残っていく可能性も高い。

 ということで、日本はこの作品を国宝やら重要文化財やら何やらに指定して、今後に継いでいくべきだと思う。それくらいの歴史的作品だと思う。

※1:http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131206-00010000-jisin-ent
※2:風に吹かれて,鈴木敏夫,中央公論新社,2013,P379

サンプル「永い遠足」その1

 始まり方が魅力的な文章はそれだけで読まれる可能性が高いということは文章を書く人にとっては当たり前のものとして持っているもので(そしてこの文章がいかに凡用な始まりであるかは言うまでもないが)、だからこそ文章を書き始められないという問題が発生する。他のジャンルに目を向けてみると、例えば映画では、劇場が一気に暗くなることで観る者に対して集中を強いる始まりがいつも約束されている。(だからこそ、その強いられた集中を切ってしまう上映途中での入場者に対して非常に苛立つのだろう)

 そういった意味で演劇というのは、始まり方についてなんとも難しいジャンルであるように思う。例えば、幕があるような大きな会場であれば幕があがることが映画でいうところの暗さと同じ役割になるだろう。しかし、いわゆる"小劇場"では幕があることは少ないし、ステージは最初から見えているし、必ずしも真っ暗にすることが出来るわけではない。そういった様々な制約がある中で、サンプル「永い遠足」はいきなり観客を引き込む素晴らしい導入を持った作品である。なぜなら、軽トラックが舞台袖から走ってくるのだ。しかも、音がしない。そのため、突然白い大きな塊がそれなりの速度で視界に入ってくることに気がつくところから始まる。

 軽トラックというあれだけ大きい物が動くのに音がしないというのは、ものすごく不気味なことであるように思う。大きい物を動かすのに、人力や石油といった動力で動くことを前提として価値観を形成してきた身からすると、あれだけのものが音もなく突然現れるのはそういった価値観を壊してくるような気持ち悪い感覚があるからだろう。そもそも、その軽トラがなぜ音がしないのかと言えば、電気自動車だからだ。音がしない車というのは社会問題にもなっていることで、この軽トラが突然目の前に現れるという驚きと気持ち悪さがこの作品を見る上で最初に植え付けれられる感覚ではないだろうか。

砂田麻美監督「夢と狂気の王国」

 ここ数年で、ジブリのドキュメンタリーといえば、NHKが放送しているというイメージが強い。NHKの「プロフェッショナル」という番組はある一人に密着する形式のドキュメンタリー番組で、ジブリの新作が公開されるたびに放送されている。といっても、ここ数回で放送されたのは「宮粼駿」についてであり、「ジブリ」についてではない。この番組はどこか自己啓発的なところがあり、私たち視聴者は宮粼駿がうんうんと唸りながらシナリオを作ったり、作画する様子を観て、これほどまでに追い込まなければこういった作品は出来上がらないのだと驚き、そしてその仕事っぷりに尊敬する。そして、自分も明日からの仕事を彼らの10分の1ほどでいいから頑張ろうと思うのである。

 そういった中で、この「夢と狂気の王国」は「ジブリ」についてのドキュメンタリーとして公開されている。ポスターのキャッチコピーには、「ジブリにしのび込んだマミちゃんの冒険」とある。そのキャッチコピーの通り、本当に忍び込んだかのような、かなり低い位置から見上げるようなカメラアングルからこの映画はスタートする。「風立ちぬ」と「かぐや姫」、この2作の製作過程から宮崎の引退会見までが映されている。
 「ジブリといえば?」という質問をすれば、100%返ってくる人が3人いる。その3人、宮粼駿、高畑勲鈴木敏夫のうち、宮崎、鈴木に関しては劇中かなりの時間登場するが、高畑に関してはほぼ登場しない。しかし、この高畑がジブリにいるという「感じ」はこの映画の上映中常に漂っている。その存在を醸し出すために、「かぐや姫」のポスターが出てきたり、「かぐや姫」プロデューサーの西村さんがたびたび登場し高畑について語ったり、宮崎駿が高畑について絶賛したりボロクソに言ったりする場面がいいタイミングで出てくる。こういった手法により、この王国にいる3人の王のうちの一人は、直接映像に映ることはなくても存在感が常に保たれている。

 「プロフェッショナル」を見ていると、ジブリの作品は宮崎駿が死ぬ気で作ったからこそ出来上がった作品だと思ってしまいがちだが、どうやらそれだけではないことがわかってくる(当たり前のことなのだけど)。その代表格が宮崎にシナリオや画の催促を行う三吉さん。劇中、宮崎が机に向かう画が多いのだが、彼女の描く催促の画がちょっとずつ変わっていくことがわかる。こういった工夫が、長期間に渡る制作の中で変化を与えているのだろうなとわかる。他にも、宮崎の無茶ぶりを無茶とわかっていながら受け止めるアニメーターのスタッフや、常にスーツを着ている法務の方、そしてヤクルトを売る方などやはり多くの人が関わったからこそ出来上がった作品であることがよくわかる。特にアニメーターのスタッフについては、宮崎の短所などを十分に理解した上でそれでも受け入れており、母性のような包容力を感じた。インタビューなど登場する方も女性の方が多かった。

 そして、さらに気になるのはこのジブリという「王国」の行方だろう。宮崎駿鈴木敏夫高畑勲の3人が全員70歳前後という状況で、これからもジブリは存続し続けることが出来るのかと誰もが思っているだろう。この疑問については、目を背けたくなるような1シーンで回答している。それはプロデューサー見習いとしてジブリで鈴木に付いて修行している、ドワンゴ会長の川上と宮崎吾朗による次回作を巡る口論のシーンである。そこで語られる吾朗の何十にも捻れた自らの製作観は、この人が今後のジブリを背負っていくの…かと大変不安になる。宮崎駿が劇中でも言っている通り、ジブリという王国は滅亡寸前なのかもしれない。

 宮崎駿を中心に撮影しながら、われわれ観客が持っているジブリに対する興味を一つ一つ見せていくこの映画は、「風立ちぬ」と「かぐや姫」の2作が公開された今年に見たほうがいいだろうう。なぜならこのドキュメンタリーは、公開された2作を見るにあたって、物語とは別の視点を与えてくれるだろうから。

東葛スポーツ「ツール・ド・フランス」

 それまでにもどんどん上げ続けるDJというのはいたと思うのだけれど、それでも2 many DJ'sの登場というのは個人的には衝撃だった。例えば、今youtubeで観ることが出来るReading Festivalの2011年の動画では、Chemical Brothers 'Hey Boy, Hey Girl (2ManyDJs Edit)'とMotörhead 'Ace Of Spades' とBlur'Girls & Boys'とNew Order'Blue Monday'が一つのミックスの中でかかるのだ。

 それぞれ音楽のジャンルは全て異なる。エレクトロ、メタル、ブリットポップニューウェーブ。ジャンルが違うからこそ、それぞれの曲でそのジャンル特有の盛り上がりがあり、それらを巧みに繋いでいくことで波を作っていくのだ。テクノやハウスのミックスの考え方とはおそらく全く違う世界観であるように思う。テクノやハウスのミックスがひとつのジャンルのちょっとした変化させていくのに対して、彼らは全てのジャンルの最もよい部分を抽出しそれを混ぜあわせることで生まれる何かを表現している。ただ、広い意味で音楽に合わせて踊るという「ダンス」をさせるために煽っており、彼らが人を踊らすためのDJであるということには間違いはない。

 さて、東葛スポーツである。今回のタイトルは「ツール・ド・フランス」。スポーツ好きであれば、当たり前のように知られているあの世界最大の自転車レースを思い浮かべるだろうし、音楽好きであればその自転車レースを元にして作られたクラフトワークのアルバムが思い浮かべるだろう。どっちなんだ?と思う必要はない。なぜなら、どちらも出てくるからだ。そして、それらを下地にこれでもかというほどの作品が載せられていく。

 タイトルは「ツール・ド・フランス」であるにも関わらず、最もフィーチャーされている作品はクエンティン・タランティーノパルプ・フィクション」。「パルプ・フィクション」の映像がステージの壁に流され、その映像に合わせて、俳優たちが動いたり、声をあてたりして話が進んでいくというシーンが多い。特に、映画前半部分のビンセントとジュールスの裏切った青年をあーだこーだ話した後で銃殺するシーンなどが使われている。

 その「パルプ・フィクション」をネタとして使ったことによって、クリアしたことが一つある。演劇という限られた空間の中で行うジャンルの中で、「車の運転」というシーンは、演じるのはとても難しいように思うが、その運転に関するちょっとした発明があった。「パルプ・フィクション」の中にある、ジュールスの運転シーンに合わせて、俳優が車を運転している手の動きをすることで、あたかも車を運転しているように見えないこともないという演出を行っている。それにより、作品の舞台である、日比谷の街を移動しているように感じられなくもないという効果を発揮している。当然、車を運転しているわけではないので、この運転しているように見えないこともないことや、移動しているように感じられなくもないということそのことが面白く見えて仕方がないという効果もある。

 「パルプ・フィクション」の他にも、たけしやオールナイトニッポン立川談志といった毎回登場するネタを始め、ニコラス・ウィンディング・レフン「ドライヴ」やゴダール「女は女である」(ツール・ド・フランスだからね!)といった映画作品から、ふぞろいの林檎たちや日比谷の野音で行われたさんぴんキャンプの映像などこれでもかというほどの作品が使われている。そして、当然ライミングもある。

 これだけの作品が次から次へと出てくれば、当然独特の空間が生まれていく。それが東葛スポーツ最大の魅力ではないかと思っている。ということで、僕は東葛スポーツが演劇界の2 many DJ'sであると思うし、これからもあってほしいと思う。

ラビア・ムルエ「雲に乗って」

 舞台上には、たくさんのCDケースや様々なものが置かれた机とスクリーンが置かれている。観客席が暗くなり、作品が始まると、一人の男がその机に向かって歩いてきて、机の前に置かれている椅子に座る。その歩き方を見るに、右半身に明らかに障害を抱えていることがわかる。そして、机に置かれたCDケースを揃えてひとまとめにした後で、一番上のCDケースからCD/DVDを取り出し、プレーヤーに入れる。その間も彼は右手を一切使わない。不自由そうに動かしている左手の動きからすると、右手は使わないというよりは使えないのであろうことが伝わる。1枚のCD/DVDは長いものでも5分〜10分ほどのもので、終わるとプレーヤーから取り出し、その下のCDケースから新たなCD/DVDを取り出しプレーヤーに入れるということを繰り返していく。

 DVDから流れてくる映像から、彼が何者で、なぜ右半身が使えないのかということが徐々に明らかになっていく。 「雲に乗って」は今作の劇作家ラビア・ムルエの弟イェッサが出演する。イェッサは、レバノンの内線で頭に銃撃を浴びたことによって後遺症を負ってしまう。銃撃の際の様子についても、劇中で詳細に語られる。

 目の前の男に集中するあまり、途中まである事実についてどこか置き去りになっているが、彼が自らのことを語れば語るほどにある事実が浮き彫りになっていく。それは、この作品はイェッサ一人では絶対に創ることが出来ないということだ。それは才能がなくてこういった構成を思いつくことが出来ないといった意味ではない。彼は銃撃によって、詩人でもあった彼の言語に関する機能が奪い取られてしまった。そのために、これほどの長さの言葉を紡いでいくことは不可能になってしまった。また、同じく銃撃によって彼は虚構と現実との区別がつかなくなってしまった。彼は演劇作品などを見ると、それが本当のこととしか感じられなくなってしまったという。また、鉛筆の写真といったモノの虚構については認識すらすることが出来ないという。ただの色のついた紙にしか見えず、それが鉛筆の写真とは認識出来ないのだという。

 こういった事実が伝えられればられるほどに、この作品を作った兄ラビア・ムルエの存在がクローズアップされていく。今まで、レバノンの内線によって銃撃を受けた男についての作品だったものが徐々に、ラビアとイェッサの兄弟、ムルエ家の家族の話へと焦点が変化していく。そして、作品の終盤でついにこの兄弟の会話が流される。イェッサはラビアに対して自らを作品に使ってくれとお願いをする。自らの話は「でっち上げ」過ぎたと語るラビアは、イェッサ本人の話を作品にすることはどうかと提案をするのだ。

 確かに舞台上にはイェッサがいる。そして、イェッサは演じている。彼は虚構と現実の区別はつかない。それでも、彼は舞台上で黙々とCD/DVDを入れ替えるという役を演じる。彼はこの舞台で話すべき内容、話したい内容を自らの体から発する言葉によって再現することは出来ない。再現どころか、一度ですら通して行うことは難しいだろう。しかし、ラビアの協力の元で構築された映像と録音によって、イェッサから失われた言葉は再度構築され、再現性を持つ演劇へと昇華される。

 ラストにイェッサは右半身が動かないにも関わらず舞台裏からギターを持ってくる。もちろん両腕が使えなければ演奏することが出来ない楽器である。ただ、行われた演奏はこの作品を観てきた者にとって衝撃だ。こればかりは観た人だけが共有できるものだからここでは書かない。

 その衝撃度は終わった後の割れんばかりの拍手がそれを示していた。拍手が鳴り止まない中、イェッサは劇中で苦手だと語っていたカーテンコールが2度行われ幕を閉じた。

6.2m @ シブカル際

 6.2mは朗読を行う前田エマと、ダンスを行う中村かなえという女性ユニット。選曲を青野研一、朗読のテキストを内沼晋太郎が手がけている。シブカル祭で、PARCOの前に設営されたステージでパフォーマンスを行った。山の手線のSEから始まり、山の手線のSEで終わるパフォーマンスは、大きく4つの朗読のパートに分かれていた。

1.渋谷とパルコ文化に関するWikipediaに書いてあるような文章
2.宮沢賢治クラムボン
3.どこかの教会の紹介文のような文章(おそらくPARCOの隣の教会だと思う)
4.Twitterでの「渋谷」検索で引っかかった文章

 朗読のテキストを見るために、1と3と4ではiPhoneを持っていた(クラムボンについては本を持っていた)。朗読のパフォーマンスで、iPhoneを持っているのは初めて見たけれど、これもPARCOの向かいにあるAppleStoreを意識してのものかもしれない。
 衣装は二人ともセーラー服。その上、中村はスクールバックを頭にかぶった状態で現れ、最初の朗読中はその格好のまま踊り続けた。
 また、朗読とダンスそれぞれのパフォーマンスも特徴的で、朗読を行う前田の声はいわゆる萌え声。にも関わらず、ダンスを行う中村はキレイ系女子で、壇蜜っぽいなと思うほどのセクシーなダンスを行っていた。
 ここまで書いただけでも、記号としてかなりの量が散りばめられており、コンセプチュアルなパフォーマンスであることがわかるだろう。衣装、テキスト、パフォーマンスと多くのものが自己主張をしている中で、音楽だけが変に主張せずに全体に対して安定感をもたらしていた。

 個人的に一番ハッとしたのは、クラムボンの朗読シーン。最初のパートからどこか説明的な文章が続いていく中、カニの兄弟が泡の大きさについて話をする場面で前田の朗読が変化する。小さいカニの兄弟を表現するために、朗読に気持ちが入っていく。それと同時に音楽が変化していく。その瞬間、ライティングは変わっていないにも関わらず、目の前が急に水の中から外を見た時のようなキラキラした感覚になった。聴覚っからの情報の変化で、視覚のイメージに変化があった不思議な感覚だった。
 渋谷のPARCOでパフォーマンスを行うということで、PARCO関連のテキストを準備してあったにも関わらず、一番ハッとしたのがクラムボンだったというのはちょっと申し訳ない気持ちでもある。ただ、パフォーマンス場所や、公演時間が変わればおそらくテキストも音楽も衣装もおそらく変わるだろう。また他の場所で観れることがあれば、見てみたいと思わせるパフォーマンスだった。